ラジオボタンと選択的夫婦別姓
選択的夫婦別姓に反対的な論拠として、内閣府「家族の法制に関する世論調査」の問12
資料1に記載のある現在の制度である夫婦同姓制度を維持すること、選択的夫婦別姓制度を導入すること及び旧姓の通称使用についての法制度を設けることについて、あなたはどのように思いますか。(〇は1つ)
が持ち出されているのを以前から見かけていたんだけど
ここでは中間的選択肢として「旧姓の通称使用」が並んでいるが、これは「選択的夫婦別姓に賛成か反対かどちらが多いか」という2択な議論の文脈上で論拠とするには情報構造として歪で妥当性を欠いており、「選択的夫婦別姓に反対か賛成か」「するべきかしないべきか」を問う観点であれば端的に
- 現在の夫婦同姓制度を維持した方がよい
- 選択的夫婦別姓制度を導入した方がよい
と2択になっている設問を参照しなければならないのではないか。
「旧姓の通称使用」という要素を盛り込みたいのであれば
- 旧姓の通称使用を推進してでも現在の夫婦同姓制度を維持した方がよい
- 旧姓の通称使用では不十分だし選択的夫婦別姓制度を導入した方がよい
あるいは、
- 選択的夫婦別姓制度を導入した方がよいか?
- 現在の夫婦同姓制度を維持した方がよい
- 選択的夫婦別姓制度を導入した方がよい
- 前の設問で「現在の夫婦同姓制度を維持した方がよい」と回答した人は、現在の夫婦同性制度における旧姓の通称使用についてどう?
- 旧姓の通称使用を推進しなくてよい
- 旧姓の通称使用を推進した方がよい
と、線形的に分割した設問も考えられるが(このブログform部品のスタイルサボってるしlistのマークアップで済ませてるけどそこは勘弁して)。 旧姓の通称使用が夫婦同姓を維持する選択肢のサブセットとして扱われていない以上、選択的夫婦別姓に否定的な論拠として2択の文脈上で援用するのは妥当性が低い(筋が悪い)のではないか。
(これは、選択的夫婦別姓に賛成する視点においては、旧姓の通称使用が代替の選択肢としての体を成していない、旧姓の通称使用でも課題は解決されずあくまでも現状か変更かの2択として捉えているのに対して、夫婦同性寄りは既存制度に対するパッチ的な選択肢を第3の選択肢として昇格させている認知の差が反映された構造とみることもできる。)
集計の選択肢を分散させた上で複数の選択肢を夫婦同姓寄りに絡め取ろうする恣意性の高い設計に見えるんだけど、こういうのってそれこそリサーチ分野では論外として切り捨てられそうな駄目パターンだったりするんじゃないんすかね。
グループ化されたラジオボタンというUI部品は、どれか1つを選択しないといけない排他性、強制力を帯びている。 ただし強制力を行使されると、極端な意見を忌避しようとして、そのインターフェースに触れたユーザーは中間的な選択をしたくなる。 (昨今の「思想が強い」と見做したものと距離を置こう、冷静な位置を取ろうとする風潮?も関連しているのかもしれない。「思想が強い」と見做す態度自体も、「思想が強い」ものを排除する恣意性を帯びた“思想の強さ”によるものなんだけど)
そこで中間の選択肢と両端の選択肢は不均衡になり、中間の選択肢に対してナッジされるようになる。
強制力のある界面・接点を設計するなら、その強制力を意識し、恣意性に自覚的な上で設計しなければならない。ラジオボタンの選択肢は調査・吟味されなければならないし、たとえばモーダルなダイアログにおいてもLightdismissで閉じれてしまうとかじゃなくちゃんとモードとしての拘束力を備えなければならないなどの考慮が望まれる。強制力の低いチェックボックスや、モードレスな設計で自由度や余白を尊重する的なのは概して難しい反面、モーダルにしていくのは楽だから思考停止的にそうなりがち、みたいに認識されてるのはまあ見かけるし少なからずそういうのがあるのかもしれないが、別にそこまででもなくてモーダルにするならするで別の難しさ、ままならなさがある。ただそこに自覚的でない、気付けていないから、恣意性とうまく付き合っていけてないのがインターフェースに顕れてしまう。
ラジオボタン、排他選択という操作系1つとってもそこには恣意性、政治性が顕れるし、ユーザーインターフェースは彼我の世界認識と分かち難く繋がっている。UIは社会の/社会への視点の投影でもある。「UIとか細かい末端の部分だけでなくより広い領域について考え、デザインを広げていこう」みたいなこと言ってるデザイナー、“事業寄りのデザイナー”の皆さんとも、政治、産業、そして社会への眼差しを交錯させ話していきたいと思っています。
そういえば、問3
現在の制度では、婚姻によって、夫婦のどちらかが必ず名字・姓を変えなければならないことになっています。あなたは、このことにより、名字・姓を変えた人に何らかの不便・不利益があると思いますか。(○は1つ)
は、設問が恣意的に設計されている旨の言及がされているのを何回か見かけた覚えがある。つまり、「何も不便・不利益がない」と「何かしら不便・不利益がある」が並置してあるのは選択肢として均衡がとれていない(どんな制度でも少しは配慮の至らない部分はあり、逆に完璧だとする選択肢は選択されにくくなる)とする指摘だ。
これは逆で、そもそも夫婦同姓などの制度化はモダニズムであり、モードである(その良し悪しについてこの段階では留保してある)。そしてその「夫婦は同姓でなければならない」モーダルな制度自体に対する議論があるのだから、制度の全体性に対する問題提起として設問は成立している。
(あと「不便・不利益がない」は、実はそこまで「制度に何も問題がなく完璧である」とイコールではないというのもあるんだけど。少なくとも自分の言語感覚においては)
「どんな制度でも全員が満足することはないのだから設問が公正ではない」といった指摘は、問いの構造を捉えきれていない。「どんな制度でも全員が満足することはない」から夫婦同姓は仕方ないしそれを前提に旧姓の通称使用で……というよりは「どんな制度でも全員が満足することはない」ので、その制度、つまり夫婦同姓というモードからの解放を提示しているわけだから。
むしろ夫婦別姓に反対的な視点においては、「何らの不便・不利益もないと思う」が過半数とまではいかないまでも、半数近い程度には多く回答されている点をさらに追求し、なぜ不便・不利益がないか、そもそも不便・不利益とは何を想定しているか、など再検討した上で現状の良い部分を捉え直す契機としていく方が前向きで良いのではないだろうか。しかし、ここでの不便・不利益とは何かを投じた問4は、対象が
問3「何らかの不便・不利益があると思う」と答えた方
に限定されていた。
あと気になっていたのが問6
あなたは、婚姻によって、ご自分の名字・姓が相手の名字・姓に変わったとした場合、どのような感じを持つと思いますか。(○はいくつでも)
について、「名字・姓が変わったことで、新たな人生が始まるような喜びを感じると思う」が最も多いわけだが、わりに抽象度高くないか……と興味深く感じた。
夫婦同性支持の根拠としての活用が見込まれる回答なのだろうけど、名字・姓の変更をポジティブな解放感でとらえる、つまり名字・姓と紐づいた家族の概念に対しても距離を置くこととなるわけで、実はそこまで夫婦同性寄りの回答というわけでもない。少なくとも自分の家族のケースを想像すると、何か人生が変わるような感覚というのは確かにあるように思われるが、これまで依拠していた(旧姓の)家族という概念から距離を置くという印象、そして家族の繋がり感が特に変わっていないような印象も排他せず両立していた。
少なくともこの選択肢においては、単に名字・姓の変更に対する印象として受け止めるほかなく、夫婦同姓に肯定的な論拠として引用するには(また逆に否定的な論拠としても)S/Nが低く、賢明ではなさそうだ。次の「相手と一体となったような喜びを感じると思う」選択肢は夫婦同姓に肯定的な文脈で援用するのに良いんだけど(一方で、一体感に対する脱構築、個別性など経由した視点から批判的に検討されることもまあ普通にあるだろう)。
と書いていて、件の世論調査を読んだ自分がすぐに思い浮かんだ程度のことなのだから、まあ同じような疑念を呈した人などいくらでもいるだろう(なんだけどソーシャルメディアではあまり見受けられなかったのがこの記事のきっかけにもなっている)と思い直し、ちょっと調べたら普通にいた(それはそうだ)。
「夫婦別姓に関する世論調査」問題の実証的検討(Google ドキュメント)
自分の疑念は問12をはじめとする各設問の情報構造、そしてそれ以上に、各設問がどのような文脈上で言及されているかへの関心が起点であったが、この文献では設問形式がもたらす心理的な側面に至るまでより仔細に実施されたらしき調査が記述されており、切実に問題視する観点が提示されていた。
選択的夫婦別姓というチェックボックス的な選択肢を提起するサイドに対して、夫婦同姓というラジオボタン的な設計に依拠したサイドが排他選択の構造をうまく捉えられていない、という捉え方はアイロニカルに過ぎるような気もするが、旧姓の通称使用で制度の差分を小さく保とうという動機にも社会へ実装する視点において一定の理解は示せるし、実装段階におけるより具体的な指針・設計が検討される段階なのだろう(一般的に氏を変更しないで済みがちになっている男性サイドであり、またそうしてしまっている自分が旧姓の通称使用を説くグロテスクさとはどうやっても距離を置きたいところだが)。